昭和四十七年六月十九日


x御理解第七十六節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか、牛馬は我子が水に落ちて居ても助ける事が出来ぬ、人間が見ると助けてやる人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ」

 有難いと心得てと、ですからこれはどこ迄も、信心で助けると云う事にならなければ、助けるという事にはなりません、でないと、いわゆる有難いと分かりません 有難いと云うものが湧いて参りません、いわゆる本当に人を助けるという事、人が喜ぶと云う事、その人の喜びが自分の喜びに感じられる、自分の頂いておる喜びが、いよいよ大きくなっていくと云うのですから、これは信心以外の事ではないです、信心以外で成程、助ける事が出来るのですけれども助ける事が自慢であったり、助ける事で自分だけがいい気分になったり、それはいわゆる助けるという事になりません。
 だから本当に助けるという事は、どこ迄も信心になって、信心を頂いて、云うなら信心の力を頂いて助けるというのでなからなければ、いわゆる有難いと心得られません。
 そこでまあ思うのですけれども、例えば人を助けるという事ではなく、反対に憎んだり、呪ったりと云うような事は、助ける事の反対になりますから、例えばお互い信心させて頂いておって、段々人を助ける事が有難いと分からせて頂いておってもです、自分の心の中に人を憎んだり、七十五節にありますように、人を殺すというが心で殺すという事も出来る、人を呪わば穴二つである、ですからそういうものは信心で助けると言う事には、さらさらあってはならないところに、これはいよいよ私共がね、大改まりに改まり、大清めに清めなければ、出来る事じゃない事が分かります。
 人を憎んだり、例えば助けるとはおゝよそ違った反対の、言うなら心であります、ねたむとか、憎むとか、そこでね、矢張りこの人を助けるという前に、本当に自分自身が助からなければならんと云う事が分かります。人を助ける事が出来るという、それを有難いと心得て、信心させてもらえれる為には、まず自分自身が真実助かる私の心の中には、人を憎むとか、恨むとか、ねたむとか、心で人を傷つけたり、心で人を殺したりするような事が、もうさらさら無いだけに私共が清まっていかなければならない、そこに私共の助かりというものもある訳です。
 隣の人が家を建てると こちらの方は腹を立てる、というような事であってはならない訳です、いわゆる、ねたましい、人が儲け出しよると ねたましい、恨めしい、羨ましい、憎い、そういう例えば私共がそういう心から解放される、そこに私の助かりと言う事がある訳です。
 私は今日ある方の事をお願いさせて頂きよった、熱心に信心が出来ます、商売をしとりますけれども、商売が不振、それでもやっぱり熱心にお参りしてくる、そしたらね、昔、車井戸というのがあったでしょう、その車井戸が一番最後のところまで下がっている、いわゆる片一方の桶は上の方へついてしもうとる、それから下の方に下げとるのもです、もう底の方にぴちゃぴちゃと水がかゝっとる位で、桶に水が入らない、はあ今こういう所通りよんなさるとばいなあ、してみるとこれは有難い事だなと私は思うたんです、今は成程水はお恵みと致しますならば、どんなにこれを、綱を引っ張ったってね、だからこの綱でも切らん限り、酌む事は出来ないという事です、随分長い間の信心ですから、例えば信心は井戸ざらえをするようなもんだと、井戸ざらえを綺麗にした後は水は少ないでしょうが段々水が多くなってくる訳です。
 だからまあ今迄の信心は、云うならめぐりのお取り払いの為の信心、云うなら井戸ざらえをする為に、汚いものをどんどん外へ出すところの信心、だからおかげ頂けんと云うて、一生懸命信心しよった人がですねえ、信心をちょっとゆるめたり止めたりするとね、形の上でおかげ頂けるという事実があるです。そげん時いわゆる綱をきる訳です、切ってからこうすると、ちっとばっかり水はもらえるというそうなね、そういう事がありますよ。
 一生懸命なると、一生懸命なる程、おかげが頂けんといったような、ひとつの現象と云うかねえ、がある事があるんです、けれども成程、道理というものを知っておかなければ、分かっておかなければ、こういう時に失敗するなあとこう思うです。
 井戸ざらいは出来たんであるからもう、云うならば間近にです、もうこの水がず―っと下から湧いて上がってくる、そして限りなく水を汲み上げれるだけのおかげが頂けれる、云うなら前提にある、今が一番大事にしなければならない時だなあと私は思うた。
 今日参って来たなら、その事を話して上げなければならないなと思いました。私共が修行の真っ最中といった時分ですねえ 大坪の家の、その時分にもうそれこそ、もう雪がいっぱい積もっている、丁度山小屋のような家に住んでいる、もう外はそれこそ吹雪で外が見えんようにしけておる、野にはもう雪がいっぱい積っておる、けれどもひと度、中に戸を開けて入ると、中にはいろりにね、火がいっぱいぐるぐる起こっとる、そしてそのいろりの周囲で暖をとりながら、有難いお話をし合い、云うならば拝み合い、願い合い、喜び合っておるというような、お知らせを頂いたことがあります。
 もう信心しよって、どうして大坪さん方はあげん貧乏さっしゃれんならなじゃろうかと、いう時代なんです、けれども、さあ一歩中へ入ってみると、ほんなこと これが貧乏しござるとじゃろうかというごとある、鍋の中あけてみな分からん、鍋の中にはもうそれこそこれが食物じゃろうかと云ったような時代なんです、云うなら、けれどもそんなら人間の心と心の触合いと云うものは、それこそたぎるようなもの、あたたか―いもの、いろりが燃えさかっておる。そこで親と子と夫婦が、もうそれこそ拝み合うていけれるという時代、だからね、いかに、もうそういう外に出れば吹雪でしけておるといったような時でも、そういう時程、中にはいろりがぐるぐるしとらにゃいけんと云う事、これが難儀のまん中じゃろうかと云う時程、信心の喜びというものを、いよいよ頂かにゃならん、いやそういう時こそ、そういう力が頂けれる時だという事なんです。
 お参りしよるばってん、いっちょんおかげ頂ききらん、けれども頂かせて頂いておるものは、自分の心の中にいよいよつのっていくところの、信心の喜びである。でなかったら、もうこごえてしまおうごとある、こう云う時がもし信心がなかったら、一家心中でもするより他に仕方がない時だろうと思うです。
 信心があるおかげで、信心の暖をとらせてもらう事が出来るから金のある間は、えらい仲のよかごたるけれども、金が段々少なくなってくると、もう夫婦が、親子がぶ―っとしてから、ははあ、あそこはもう今頃金がのうなっとるばいのう、えらい口喧嘩が始まったと云うような家がある、そらもう給料が入ってくる時にはもう、もう兎に角笑いがひしめいとる、歌どん歌うたごたる風で、そればってんもう、はゝあ、あそこは金がもう無くなったばいなと云う時分はすぐ分かる、喧嘩が始まる、あんたが悪かけんで、お前がと云うごたる風な事なんです。
 金が無くなってくると難儀になってくる。と家の中がぶっつり、がっつり云うような事では、これは信心の無い人の姿である、それが高じると、もうこの世の中に生きとったっちゃ、と云う結果にさえなりかねない、けれども段々信心が分かり、御神愛が悟らしてもろうてです、兎に角有難い有難い、の云うなら力を頂かせて頂く時には、もうむしろ、そういう恵みの水というものが無い時程です。まあこれをそんなら、堤とでも致しましょうか、中に泳いでおる魚がお徳であると致しましょうか、その恵みの水が少ない時程、手掴みにも出来る程しに、お徳やら、力やらが受けられる時なんです、だからそこを大事にしなかったらいけない。
 信心ちゃ本当に有難い、と云うのは信心させて頂く事によって、肉眼を置いて心願を開けと仰るように、段々心の眼が開いてくるから、今迄は腹の立ちよった事が、腹の立つ段じゃない、お礼を云わんならんと云う事になる。
 もうそれは本当に神様の御都合ですよ、一切が…
昨日月次祭の前講を光昭がつとめておりました、そしてお話を致しております内容が、短い時間ですけれども、一生懸命修業しよる時には、こんな有難い話が出来るなと思うて感心して聞いた。
 若先生が今度東京行きしとります、丁度十日余り、若先生の手代わりをさせて頂いておると、こんな事じゃいかんと思いながらです人間という者は、楽の方へ足を一歩踏み入れたら、もうその楽の中から足を抜け出すと云う事は、非常に難しい事ですと云うております、例えば朝参りをさせて頂いておって、そんなら朝参りを止めるとです、さあ次に朝参りをしようという勇気が、仲々出らないという、もう楽な方にはごろごろ落ちて行くけれども、いわゆる本当の事、難しい事、厳しい事には仲々、そうする事が本当と分かりながらも、出来ないと云っておる。
 ところがおかげで若先生がおらないおかげでです、十日間、その間ず―っと(少)のいろんな事やら、若先生の代わりに外まわりの事やら、いろいろ手代わりが今あっておる訳なんです、だから眠るにも眠れない、朝の御祈念が終わって丁度八時迄、私と二人がお届けをさせて頂きます、だから、これでもう誰が他の先生に代わってもらおうかと思うごと、きつい時があるけれども、それを頂きぬかせて頂く、あちらへ下がらせて頂くともう、眠ろうごとあるけれども、そこを辛抱させて頂くとその向うに、まあ有難いという事は分からんけれども、これが有難いとじゃろうかと思う、ようなものを今頃感じとりますと云うお話をしとりました。
 喜びというものは、有難いというものは、そういう修業の向うにしか無いという事を、云っておる訳なんです、若先生のおかげでと云うのを聞かせて頂いて。
 昨日嫁から葉書が来ている、長い間家を空けて、もうお父さんが毎日毎日スケジュ―ルが組んであって毎日毎日あっちこっち連れて廻ると、それで今日、あちらを起こして頂くといったような葉書が来てる訳です、ちょいと呑気な奴どんじゃあるねえ、と云いよったけれども、光昭の話を聞かして頂きながら、ほんなこて、こらあ神様の御都合じゃった、光昭が十日間、それだけの信心に打ち込めたと云う事は、早うおそ帰って来るなら光昭は、それを分からんなりにしまえにゃならん。
 長男の若先生の方は、神様が育てて下さる、いや光昭とても同じ事ですけれども、光昭にふんぎりをつけさせて下さる事の為の働きじゃったねえと云うて、話したことでした。
 ですからどうした奴どんじゃろうか、なんてん事は絶対ないですもうこれは神様の御都合です、ですからそこが分かれば分かる程、どんな場合であっても、そんならさっきから申します、恨むとか憎むとか、云うならば心配をしたりする事は、ひとっつも無いのだけれども、私共がスキッとした信心を頂いていないところから、そういう事になってくる。
 昨日はお月次祭の時「天下の合楽」という事を頂いた。これは私のいつも願いにしておる事、お道の信心を、云うなら世界に広めさせて頂こう、本当に世界中を和賀心時代にさせて頂きたい程の願いを持っておる。現在が天下の合楽と云うのじゃない、そういう願いというものを持っておると云う事なんだ、そこでですよ、私はお恵みが少ない時程、お徳を受ける時だと、お恵みの水が無い時程ですより力を受ける時だと云う事を申しましたがね。
 そらもう合楽はこげんおかげ頂いてと、私はそれをいっちょもおかげと思ってない、おかげと思うとりますけど、まあだまあだ神様が下さろうとするおかげは、こん位のもんじゃあない、と言わば思うておる訳なんです、ですからお恵みの水はいつも、ぱちゃぱちゃとしか私には感じられんのです、だからこそ限りなく精進して行けるということが分かりますねえ。もうこけだけのお金を頂いた、これだけの事が出来たら、おかげてんなんてん思うちゃ絶対ならん、何故って神様のおかげはね、もう限りはないのですから。
 丁度お説教の時に、私の目の前に高橋さんがござり、佐田さんがござり、むつ屋の信司さんが座っとりましたから、三人の事を云うて申しました。
 私も天下の合楽を目指すんだから、皆さんも云うなら天下の三福を願いなさい。天下の佐田を、天下のむつ屋を願いなさい、為にはこういう信心しなけりゃいけませんよ、という話を聞いて頂いた。例えばもうこれだけのおかげを頂くようになったから、やれやれと私が腰掛けたら、もうそれは確かに広大無辺のおかげかも知れませんよ、見方では、けれども私はこれはね、まあだおかげの序の口だと思うとるです、まあだお水はぱちゃぱちゃの所だと思うです。
 神様が下さろうとしておるおかげは、そんなもんじゃない、まあだまあだ云うなら天下の合楽、というようなおかげを頂く為には、まあだまあだそれは程遠い事でありましょうけれども、願いをそこに置いてあるから、いつも修業を怠らんで済む。
 昨日もある方のお取り次をさせて頂いとりましたら、大きな筆に先の方ばかりに、少しばかり墨を付けて字を書いとる、ですから、少しばかりの墨ですから、もうペンで書いたように、きちっと書いてある、もう四角―い字、云うなら心角、小さい字を心角と云うでしょう、心角という事は、いわゆる心が角いという事、云うなら几帳面だという事、この人は仲々几帳面な人、けれども神様の願いというのは、こういう大きな筆で、この筆でなければ書けないと云うような、大きな字も書かせてやろうと云う願いを持っておる人なんです。ところが修業をいとう、もう現在の修業から抜け出ろうごとしてこたえん、たった まあだ穂先に少しばっかり墨がついとるだけなんです。
 墨という事は黒をするから、苦労の事、修行の事、だから、もともとこの苦労をね、すり溜めなければならないと云う事になったらみや―すくいけるところをです、只それを目の前にこんなにして見るもんですから、それが自分一人が分がわるい、自分一人が難儀な所を通っておると思うておる訳です。
 そして字は成程性格的に几帳面な人ですから、それこそ舛のごと四角い字を書いておるけれども、小さい小さいペン字のような字を書いておるところを頂いた、惜しい事じゃなあ、神様がこういう大きいおかげを下さろうとしてあるのに、だからこそ神様がこういう修行も願い求め、又はさせよんなさるのに、その修行から自分の方が身を引こうとしておる、まあ何と云う分からんとは云いながら、惜しい事じゃとこう思うのです、だから苦労じゃないです、もう修行です、大きなおかげを頂かせて頂く為のです、修行です。
 同時にですねえ、あれが少うしばっかりのおかげを頂いてですねまあ云うなら信心しよるけん家庭も円満、今迄赤字じゃったのが黒字になっていきよる、もうこれ以上の事は望まん、と云う位な考え方を持ってる人はです、もう必ずそこに腰掛けるです、いわゆる月形半平太的なおかげで終ってしまう、ですから本当に大きな信心させてもらわにゃならん、云うなら今日の御理解から云うなら、人を助けるという事が有難いと心得てする信心にならせて頂かなければ出来ません。
 人を助けるでも十人より百人、百人より千人の人が助けられる程のおかげを頂く、いわゆる天下の誰々と云われる程しのおかげを頂かにゃいけん、そんならお金を沢山持ってる人が助けられるかと云うと、決してそうじゃない、月次祭の中に私が申しました事ですけれどもね、今年の日本一の納税者の人は、殆どが土地成金ですよねえ、お土地を売って一辺に成金になってしもうた、それで新聞記者が、日本一の云うなら財閥になったんですから、あなたのお考えはと云うて聞いたら、「僕はね うちのこの屋敷内に飛行場を作りたい」そげな考えしかうかばんです、お金が沢山出来た位の事では、それが何になりましょうかねえ、自分方の屋敷に、自家用の飛行機を置いて、そして自分とこの屋敷内に飛行場を作ったところで何になるか、人を助ける事にはならんでしょうが。
 だから信心によってです、人を助ける事が有難いと心得て、信心させて頂く為にはです人を助けると云う事と同時に、人を助ける反対の心というものを、まず改めて行かなければならないという事、果たしてそういう心がないか、私はもう今朝から、もう本当にク―ッとするごたるzお夢を頂いた。というのはね、私が泥棒に入っとる、米が十俵ばかり積んじゃる、それを一俵盗ろうと思うちから……ところがかかえきらん。それもんじゃから仕方がないから、一斗ばっかり他のかますのに移してから、そして荷造りしてから持って行こうとしておるところへ窓から光が見えるけんで、ちょいと窓からのぞいたら、そののぞいた所に人がござるとです、そして後はやっぱり良心的ですよねえ、信心させてもらいよりますから、あゝこれを盗らんでよかった、めぐりを積まんでよかったと、思いよるところで眼を覚ました。
 だから泥棒するでちや力がいるという事、それこそ一俵でん、力があるなら持って行かれるとばってん、自分はそこの十俵ばかりあるとの中からですね、盗ろうとしよる訳です、そしてからその、持ちきらんもんじゃけん自分が持ちきるだけ、一斗ばっかり他のに入れて荷造りして、盗って持って行こうとしておる所へ人から見付けられた。まあ私はこの御神意というものは、どういうところにあるじゃろうか、私の心の中身にまあだこういう泥棒心があるのじゃろうか、と厳密に自分という者を思うて見ておる訳ですけれども、まあ云うなら泥棒するでちゃ力がいるという事、力なしに例えば自分のもので  いっぱいであるのに、人のもの持ってあげる事すら出来んじゃないか、力を頂かなければ出来ません、その力を頂くという時にはです、これが苦労の真ん中だろうかと思われるような時にこそ、力が受けられるのであり、お徳を受けるチャンスである。
 それこそ外は吹雪でという時である、だからその内容として中身にです、それこそぐるぐるするような、イロリに火が燃えさかっておるような、暖かあい心というものを、作らせて頂いておかなければならん、その暖かい心を持って人に接し、人が助かることの為に自分の云うなら持っておるもの全てで、行使させて頂くというところにです、成程人を助けられる事が有難いという事になるのじゃないでしょうか。人が助けられるのが有難いと心得て、信心せよというのは、そういう事だと私は思います。
 苦労が続く人もです、私は大きな字が書けれる、云うならば内容を頂いておると、まず思うていいです、信心しとって苦労が続くなら、だから思う存分の大きな字を書かせて頂く為に、ひとつしっかり苦労をすりためとかにゃいけん、本当な事がわかってくるとね、その苦労が苦労ではない、勿論修行ですけれども、その修行が楽しゅうなってくる、有難うなってくる。
 私共の心の中から、光昭が云っておりますように、楽の方へ足を一歩入れたら、もうそれから抜ける事が非常に難しくなる、と云っておりますように、云うなら堕落する心というものをです、厳しく私は、自分の心の中に頂いていかなければならない。
 これだけのおかげを頂いたなら、てんなんてん思わずに、限りないおかげ、限りなく恵まれるおかげ、そういう限りないおかげを頂かせて頂く事の為にです、限りない信心修業をいとわんで済む信心しかもその信心修業というのは、段々高度になって来れば来る程、いよいよその信心修業が有難い、尊いものになってくるので御座いますから、お互いひとつ、本当に天下の○○と、天下の合楽と云われる程しのおかげを頂きたいのでございますから、修行はこれ迄なんてん、けちな考えを起さずに本気で、例えば昨日の御理解を借りますとです、神様が安心して下さるという事は、私共が安心のおかげを受ける事だという事。
 そこでそんなら私がです、自分から求めて楽はせんぞといった心になったり、もう神様があの氏子は大丈夫と安心して下さる、そんなら自分で楽はせんという事になったら楽は出来んかと云うと、そうじゃあない、神様が与えて下さる楽というものはもう、限りが無いものだと云う事。それを昨日は百味の御食的なおかげと、自分で求めて食べんと心に言わば、本当に決めさせて頂けば、神様は食べさせにゃおかんという働きを、感じさして頂ける、いわゆる限りないおかげの実感の中に、信心生活をさして頂く。
 これは人間は人を助ける事が出来るという事は、有難い だから人間であれば親切心は誰でもあるから、助ける事が出来ますけれども、最後の所の、云うならば助ける事が有難いと心得てと云う事はこゝで云われる、人を助けるという事は、信心によって人を助けるという事だと、そこで人を助けるという事の内容は、勿論力が必要で有ると同時にです、人を助けるどころか、反対に人を傷付けたり陥れたりするような心と云うものが、厳密に云うとあるんだと。
 私が今日お夢の中に頂いたようにです、もうそれこそです、これだけはさらさら無いと云う、自分で思うとるけれども、神様の眼から御覧になればです、けちな云うなら泥棒でもしようかと云うような心の状態が、心の底には有るんだと、そういう所を極めに極めさせて頂いて、おかげを頂き、いわゆる天下の合楽を私も目指させてもらう、皆さんも天下の〇〇を目指させてもらえるような、おかげを頂いておきませんと、もうやれやれこの位という事で腰掛けます私はね、まあだ私が頂いておるおかげというものは、まあだお水で云うならパチャパチャのところだと、自分で思うとります。
 もうこれ程のおかげを頂いておると云うたらおしまいです、限りないおかげに触れていきたい、ですから神様が下さろうとするおかげを、いよいよ頂かせて頂く事の為に、いつもパチャパチャのところでです、ですからいつもパチャパチャなのです。
 教祖はそこのところを、今中というお言葉を使っておられます。いつも今中なんだ、だから修行の心と云うものは、いつも心の中に頂き続ける事が出来る。
 修行という事を苦しいことと思うたら大間違い、修行とは有難いというところ迄、分からせて頂かねば、人を助けるという事は出来ませんですね。                   どうぞ